世界の終わりの風景
ようやっと三島由紀夫の「近代能楽集」を新潮文庫で見つけて買ってきた。
先日、蜷川の舞台を観た際にふと頭に浮かんだ考えが、文字だけになっても得られるものか確かめてみたかったのだ。
その考えというのは、三島由紀夫はこの作品に「鎮魂」の意味を込めたかどうか。
観劇直後のブログで、俊徳が空襲の時の情景を語る台詞は、あのように激しい動きではなく、静かな語りの方が凄みが出るのではないかと、書いた。
そのときに私がイメージしていたのは、俳優(=わざおぎ)という言葉だった。
日本の芸能、特に演劇的なものの起源は、祀りにある。
古代、我々の先祖は死者の霊を祟るものと考え、それを鎮めるために祀りを行った。
死者の霊を現世に呼び出し、もてなし、エネルギーを発散させることで現世に実害のある祟りを回避しようとした。
その死者の魂を呼び出すための方法が、生前の姿や死の時の状況を語ったり、再現することであり、それを「わざおぎ」と呼んだ。
この作品のベースとなっている能もまた、この流れを汲む芸能である。
俊徳の言葉は、舞台の上に彼が見た世界の終わりを表出させ、死者の声を蘇らせた。
何のために。
蜷川の激しい演出では俊徳の狂気が前面にアピールされ、この作品の主題を表していると思われる死者を蘇らせた意味を、考えきることができなかった。
だから、単純に「わざおぎ」=「鎮魂」と考えたのだが、何かが違う気がする。
三島由紀夫の「文字」を、何度か読み返してみた。
そして、自分の違和感の原因が解った。
鎮められた魂は、空襲で死んだ人々ではなく、俊徳自身なのだ。
舞台前半で俊徳は言う。
「あなたが幽霊でなければ、この世界が幽霊なんだ。この世界が幽霊でなければ、あなたが幽霊なんだ」
だが、幽霊であったのは、俊徳その人ではなかったか。
戯曲を読んでみると、観劇時には素通りしてしまった級子の「あなたはもう死んでいたんです」という台詞が、ひとつの転換ポイントになっているのに気付いた。
空襲で眼を焼いてからこの調停の日まで、俊徳は死んでいた。
世界の終わりの風景を語ることによって俊徳が呼び出したのは彼自身の魂であり、彼はまた死の世界に戻っていくはずだった。
しかし、級子によって世界の終わりの風景を否定され、死の中へ戻ることができなくなった俊徳は、生の世界に留まらざるを得ない。
盲目を楯に世俗的なことを見下す行動を取っていた俊徳が、級子の台詞の後、自ら食事の要求をする。
その要求に応えるため級子が部屋を出る時の「僕ってね、…どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という俊徳の台詞は、なんだか言い訳めいて聞こえた。
否定していた生の世界に戻ってしまったバツの悪さから、何か言わずにいられなかったかのように。
そこに生の喜びはなく、受け入れ難い世界に引き戻され、縛り付けられた絶望を感じる。
俊徳は、三島自身が投影された役柄だという。
三島由紀夫にとって、世界はそういうものだったのか。
あの激烈な死の時まで、彼はその生をストレンジャーとしての違和感を感じ続けていたのだろうか。
先日、蜷川の舞台を観た際にふと頭に浮かんだ考えが、文字だけになっても得られるものか確かめてみたかったのだ。
その考えというのは、三島由紀夫はこの作品に「鎮魂」の意味を込めたかどうか。
観劇直後のブログで、俊徳が空襲の時の情景を語る台詞は、あのように激しい動きではなく、静かな語りの方が凄みが出るのではないかと、書いた。
そのときに私がイメージしていたのは、俳優(=わざおぎ)という言葉だった。
日本の芸能、特に演劇的なものの起源は、祀りにある。
古代、我々の先祖は死者の霊を祟るものと考え、それを鎮めるために祀りを行った。
死者の霊を現世に呼び出し、もてなし、エネルギーを発散させることで現世に実害のある祟りを回避しようとした。
その死者の魂を呼び出すための方法が、生前の姿や死の時の状況を語ったり、再現することであり、それを「わざおぎ」と呼んだ。
この作品のベースとなっている能もまた、この流れを汲む芸能である。
俊徳の言葉は、舞台の上に彼が見た世界の終わりを表出させ、死者の声を蘇らせた。
何のために。
蜷川の激しい演出では俊徳の狂気が前面にアピールされ、この作品の主題を表していると思われる死者を蘇らせた意味を、考えきることができなかった。
だから、単純に「わざおぎ」=「鎮魂」と考えたのだが、何かが違う気がする。
三島由紀夫の「文字」を、何度か読み返してみた。
そして、自分の違和感の原因が解った。
鎮められた魂は、空襲で死んだ人々ではなく、俊徳自身なのだ。
舞台前半で俊徳は言う。
「あなたが幽霊でなければ、この世界が幽霊なんだ。この世界が幽霊でなければ、あなたが幽霊なんだ」
だが、幽霊であったのは、俊徳その人ではなかったか。
戯曲を読んでみると、観劇時には素通りしてしまった級子の「あなたはもう死んでいたんです」という台詞が、ひとつの転換ポイントになっているのに気付いた。
空襲で眼を焼いてからこの調停の日まで、俊徳は死んでいた。
世界の終わりの風景を語ることによって俊徳が呼び出したのは彼自身の魂であり、彼はまた死の世界に戻っていくはずだった。
しかし、級子によって世界の終わりの風景を否定され、死の中へ戻ることができなくなった俊徳は、生の世界に留まらざるを得ない。
盲目を楯に世俗的なことを見下す行動を取っていた俊徳が、級子の台詞の後、自ら食事の要求をする。
その要求に応えるため級子が部屋を出る時の「僕ってね、…どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という俊徳の台詞は、なんだか言い訳めいて聞こえた。
否定していた生の世界に戻ってしまったバツの悪さから、何か言わずにいられなかったかのように。
そこに生の喜びはなく、受け入れ難い世界に引き戻され、縛り付けられた絶望を感じる。
俊徳は、三島自身が投影された役柄だという。
三島由紀夫にとって、世界はそういうものだったのか。
あの激烈な死の時まで、彼はその生をストレンジャーとしての違和感を感じ続けていたのだろうか。
この記事へのコメント
守矢も「近代能楽集」新潮文庫バージョン持ってますよ♪
守矢は「弱法師」を文字で読むのは苦手です。
「近代能楽集」の中でも、一番三島由紀夫が出ているような気がして・・・
なんだか自慰行為見せられてるような嫌な気分になるんですよね。
今回舞台を観たので、その前に読み返してみたんですが、やっぱり苦手。
他の作品の方が好きです。
藤原竜也は好きだけど←結局ミーハー??
私は三島作品は数作を、しかも10代の頃に読んだきりなので、三島由紀夫的なものというのがよく解りませんが、この作品に限って言えば、戯曲=文字vs演出=身体による表現という観点では、文字の方がより作品世界に深く入り込めたように思います。
藤原竜也は、確かに凄かったですよ。
ミーハーだろうが何だろうが、追っかけるだけの価値のある俳優さんですよね。
と言いつつ、「瑳川哲朗さん、しぶい! 夏木マリさん、カッコいい!」と騒ぎまくっていたのは私です。
結局、私もミーハーな上に、マニアック??